朝井リョウ先生の渾身の作品で「柴田錬三郎賞受賞作」! SNSでも何度この「正欲」の表紙を見たことか。今回,ようやく購入し,読了しました。
読んでみて思ったのは,とにかく「これまでにない視点の作品」であるということです。「欲」というものにはいろいろなものがあります。睡眠欲や食欲などなど。でもその「欲」というものって,みんな同じなんでしょうか。
人はそれぞれ性格も違うし,異なる環境で育ち,価値観も人それぞれ。それを小説として,またそれを映画化することでこれまでにないテーマを打ち出した朝井先生の本作品。読了後,このタイトルのことを考えてみるわけです。
そこには捉え方も人それぞれであることを考えさせられました。映画は観てませんが,キャストは稲垣吾郎さん,新垣結衣さんなど,豪華です。こっちも観てみたい気がしますね。
「正欲」とは何か。本作品は何を描いているのか。是非読んでみてください!
目 次
1. こんな方にオススメ
2. 登場人物
3. 本作品 3つのポイント
3.1 啓喜と息子の溝
3.2 それぞれが抱える「欲」
3.3 マイノリティーの現実
4. この作品で学べたこと
● マジョリティーとマイノリティーについて考えたい人
● 「正欲」の意味について考えてみたい人
● 多様性の理想と現実について知りたい人
自分が想像できる“多様性”だけ礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな――。息子が不登校になった検事・啓喜。初めての恋に気づく女子大生・八重子。ひとつの秘密を抱える契約社員・夏月。ある事故死をきっかけに、それぞれの人生が重なり始める。だがその繫がりは、“多様性を尊重する時代”にとって、ひどく不都合なものだった。読む前の自分には戻れない、気迫の長編小説。
-Booksデータベースより-
寺井啓喜・・・検事。不登校の息子を持つ
桐生夏月・・・寝具店の店員。中学時代に重大な出来事があった
佐々木佳道・・食品会社勤務。夏月の同級生
神戸八重子・・大学生。恋愛に憧れるが,男性恐怖症
諸橋大也・・・大学生で八重子と知り合う。事件を起こす?
1⃣ 啓喜と息子の溝
2⃣ それぞれが抱える「欲」
3⃣ マイノリティーの現実
神奈川県警など,複数の警察の合同捜査本部が、児童ポルノ組織を摘発します。男性3人の存在が浮き彫りになります。とある公園で、子供たちに水鉄砲などの道具を与え、ボランティアを装い無邪気に遊ぶ大人たちの犯罪。
その3人とは,リーダー格の大手食品会社勤務の佐々木佳道、小学校の非常勤講師の矢田部陽平、大学3年生の諸橋大也。というのが本作品の冒頭で語られる犯罪です。一体,この3人は何をしたというのか,と想像させられるわけです。
本作品ではこの3人以外にも重要な人物が登場します。まずは寺井啓喜です。彼は正義感の強い検事であり,家族もいました。妻と息子の3人で生活を送っていました。
しかし,彼には悩みがありました。それは,息子の泰希が不登校になってしまったことです。学校へ登校し,社会に出てもしっかり生きていけることを願う啓喜にとって,息子の不登校は辛い。
それは,社会の厳しさを知っている啓喜だからこその考えなのかも知れない。しかし,母親の由美はどちらかというと泰希の味方です。ここに家族の溝が浮き彫りになります。
確かにYouTubeなどを観ていると「学校など行かなくてもいいじゃないか」という人々がいます。そういう意見を聞いてか,泰希は現在の教育のあり方に疑問を抱き、学校など不要だと考えているようです。
これは難しい問題です。確かに,自分の将来に不必要と思われるものを敢えて学ぶ時間があるのなら,必要なものを学ぶ時間を増やした方がいいのはわかります。ただ,日本人として最低限必要な知識というのもあるのではないかとも思わせられます。それをなくして,自分がやりたいことだけを本当に出来るのか。ちょっと疑問が湧きます。
ある日,啓喜は,水を出しっぱなしにして蛇口を盗んでつかまった藤原悟という容疑者の新聞記事を読みます。蛇口の窃盗? 逮捕された藤原は「水を出しっぱなしにするのが嬉しかった」と話しているとのこと。
啓喜と一緒に捜査をする越川は「藤原は水を見て興奮するという特殊性癖で、性的に興奮したかったのではないか」と言い出します。しかし啓喜は,そんなことあるはずがないと思っているようでした。
息子の泰希は,不登校児が通うNPO法人で知り合った彰良という少年と出会います。意気投合した2人はYouTubeに動画を載せるようになります。何と動画チャンネルを開設し,自分たちがやりたい企画を考え,あるいはフォロワーのコメントに影響された内容を投稿するようになるのです。
母親の由美は,自分の息子が今までにないくらいの笑顔で取り組む姿を見て,泰希を応援するようになります。ただ父親の啓喜は違いました。厳格な彼は,息子のやっていることに嫌悪感を持っているようです。やはり啓喜にとっては,息子が不登校で勉強をしていない,ということ一点に悩んでいます。このままだと悪いことが起こるのではないか。
実際におかしなことがおきます。泰希たちが配信する動画サイトに,時々コメントをくれる視聴者がいて,どうもその内容に気になるところがあるとNPO職員から言わたのです。そして、とうとう泰希たちのチャンネルが急に停止されたことを知ります。
例えば,違法なわいせつ動画サイトと判断されたチャンネルが停止されることはあるらしいんですけど,一見悪意のないものも停止させられることがあるようです。泰希のチャンネルもそう判断されたのでしょうか。視聴者からのリクエストに応え続けることで,どんどんエスカレートしていったから停止されたのか。
実は,ここが本作品の一つの重要なポイントであることが後々明らかになるのです。
寝具店で働いている桐生夏月という女性が登場します。「睡眠欲は自分を裏切らない」という理由で今の仕事についた夏月。彼女には中学3年生の時,同級生だった佐々木佳道との思い出がありました。あっ,この名前,冒頭で出てきた名前ですよね。この人物が一体何をしたのかと想像しながら読むわけです。
夏月の思い出は,水道水を一杯に出し,水飛沫をあびたということでした。佐々木はそのまま転校してしまい、その日以来,ずっと会うことはありませんでした。ところが,最近になって夏月はあるYouTubeチャンネルのコメント欄に登場する「サトルフジワラ」の名前を目にします。ひょっとして先に書いた「藤原悟」のこと?
さらに夏月は大手食品会社の採用サイトに、佐々木佳道の名前とプロフィールを発見するのです。佐々木と最後に会った時のことが思い出されます。佐々木が就職を決めた理由には「食欲は人間を裏切らないから」とあります。まるで夏月の志望動機と同じですね。
夏月は中学の同級生と出会い,近々同窓会を開くことを知ります。そしてあの「佐々木佳道」も来るらしいんですね。夏月は動揺を隠せないでいました。あの佐々木と会えるかもしれない。
実は,夏月がハマっているYouTubeチャンネルが,小学生2人の企画動画チャンネルであることがわかります。ここで泰希のチャンネルと結びつくわけです。
夏月は「サトルフジワラ」というのは,実は佐々木のことではないかと想像していました。
そして同窓会の日。夏月は佐々木と再会します。そして2次会が終わった後、夏月は佐々木と2人だけで話をすることになります。
そこでかつて水道水を一杯浴びた時の話へ飛びます。夏月は勇気を持って,少年たちの動画チャンネルのサトルフジワラについて聞きます。しかし佐々木は「それは自分ではない」と答えます。
実は佐々木も「サトルフジワラ」の正体は夏月ではないかと思っているようでした。一体,夏月と佐々木は何で惹かれ合っているのか。この「水飛沫」には何か意味があるのか。
それは彼女たちの「性癖」にありました。小さな頃から,水に対して異常なこだわりがあったのが佐々木佳道だったのです。中学時代の最後には,夏月が自分と同じ性癖を持っていることを知ったのです。
なるほど,だから「水」に異様なこだわりを持っていたし,YouTubeのコメントもお互いがそれぞれコメントしていると錯覚したんですね。久々に再会した2人は,その後付き合うようになり,結婚することになったのです。
話は変わって,ある大学が舞台になります。大学生の神戸八重子は,多様性を重視する「ダイバーシティフェス」を開催したいと提案します。なぜ「多様化」なのか。それは彼女が男性に対して,恐怖心を抱いているからでした。
彼女には忘れられない出来事がありました。それは自分の実の兄の行動についてです。彼は国立大学を出て地元の銀行に就職しています。エリート街道まっしぐらに進んでいるような兄でしたが、何かしら違和感を感じていました。
違和感を暴くべく,八重子は兄がいない間に,彼の部屋に入ります。そして,ポルノの性的動画を見つけてしまうのです。八重子は,兄が妹である八重子をどう見ているのかを想像してしまいます。
この日から,彼女は兄だけでなく,男性に対して恐怖心を持つようになったというわけです。多様性って,いわゆるマイノリティーも認めるということと同義のような気がします。自分と同じようにコンプレックスも持ちながら生きている人々がいる。
ただ,彼女にはその「男性恐怖症」を感じさせない男性の存在がありました。それが諸橋大也という人物。この名前も,冒頭での事件の3人のうちの一人です。一体,どんな繋がりがあるというのか。。。
続きは実際に本作品を読んでほしいと思います。
マジョリティーとマイノリティーという言葉が何度も登場する本作品。圧倒的「少数派」への差別に対し,そのコンプレックスを抱えながら必死で生きている人々もいるということ。
かつては偏見があった人種や行動も,現代になってからはその「少数派」の存在をも認めるような世の中になったような気がします。みな自分は「普通である」「常識である」と思い込んでいるだけなのかなって思ったりもします。
誰もが持つであろう「コンプレックス」を,世間に認められるのか認められないのかによって善と悪に切り分けてしまうことが,いかに安易であるのかを深く考えさせられました。少数派も受け入れていくべきではないのかということ。
ただ思うのは,多様性が認知されるようになったからといって,全ての人が自由に自分を表現できるかというと,現実はそんなにやさしいものではないということも感じてしまいます。
これが本作品のテーマの一つだったのではないかと考えるのです。
● 多様性と言いながらも,未だにその理想と現実には偏見が存在すること
● 世の中には人々が持つ「欲」,隠したい「欲」というものがあるということ